ブログ
2024年
3月
03日
日
笛吹川フルーツ公園
3月に入り、春らしくなってきました。今日は少しドライブして山梨県の笛吹川フルーツ公園にやってきました。ガラスのドームは建築家の長谷川逸子さんの設計です。
甲府盆地の北側斜面に位置し、山麓を流れる笛吹川の向こうに盆地を一望できるロケーション。3つのガラスのドームは、斜面の高低差を巧みに利用して配置され、山梨県の果樹栽培やワインの歴史や展示空間、イベント空間が設計されていました。
実は今回の目的は、子供の屋外遊具や動的な空間。現在設計中の幼児施設の参考になればと思い、幼稚園に通う娘を連れてやってきました。一度遊び始めると、なかなか帰ってきません。
今日は私の誕生日なのに、仕事のことも考えている。えらいでしょ、と自分を褒めてみる(笑)。
静岡県の人にとって、この眺めはなかなか経験する風景ではないんです。あの山の向こうに、山中湖、さらに行って御殿場がある感じでしょうか。山裾を目で追うと、甲府盆地の縁の部分を認識できました。
実は数年前、建築家協会で発行している冊子の表紙に、井上靖の小説の表紙の写真を掲載したことがありました。この本は自分の私物で、手にしてから何十年も経ちます。物語の中に広がる空間と時間を小説として巧みに設計しており、興味が尽きず何度も読み返してきました。
ただ一つだけずっと気になっていたのが、表紙の山の絵の寂しさ。甲斐の国の山は本当にこんな感じなのだろうか。駿河の国にいると、冬でもこんな山は見たことがありません。針葉樹に覆われ、常に青々としているからです。しかし今回初めて納得しました。同じだ。あの山塊に囲まれていたから、信玄達は外へ出たいと渇望していたのでしょうね。
2023年
12月
24日
日
虎渓山 永保寺
カトリック多治見教会の裏側に、土岐川がぐるっと湾曲している地があり、そのほとりの虎渓山に永保寺があります。
鎌倉時代の1313年に開創された、臨済宗南禅寺派の禅寺です。
土岐と聞くと、美濃国にいるんだなと感じますね。斎藤道三より前に美濃を統治していた土岐氏を思い起こします。
さてこの時期(11月11日)は、紅葉もうっすらと始まり、広い境内には美しい景観を求め多くの人が参詣していました。
広い境内には多くの建物があります。中央に池泉回遊式の国指定名勝庭園があり、その畔に国宝観音堂があります。
1314年夢窓国師が虎渓に来られた翌年に建立されたとされ、禅宗伽藍の中では一番大切な仏殿です。屋根先端の反りに大きな特徴があるのが見て取れると思います。
別名で水月場とも呼ばれていました。確かにここから正面の池に映る月の姿を眺めたら、さぞ美しいことでしょう。
池を西に回りながら散策していくと、国宝の開山堂が見えてきました。
1352年頃に足利尊氏が建立したといわれ、純正唐様ともいうべく、室町時代初期の代表的な建築です。
中には入ることができませんでしたが、裏側の祠堂には、開祖夢窓国師開山仏徳禅師の坐像が安置されているとのことでした。
この美しい寺も、長い歴史の中で色々な困難がありました。南北朝の動乱に巻き込まれ、荒れていた寺を見かねた足利家が保護し、次の時代の人々が努力を重ね、現在に至っています。
2023年
12月
16日
土
カトリック多治見教会
中山道に近い多治見の地では、出荷しやすいように軽い盃を中心に磁器生産が行われていたと解説を聞きながら、カトリック多治見教会にやってまいりました。1930年にドイツ人のモール神父により、日本の修道士養成を目的に建てられた修道院です。木造で老朽化もしてきましたが、多治見市観光協会を中心に保存活動が始まっています。
木造の聖堂は天井の高い開放的な空間でしたが、ちょうどお祈りをしている方もあり、撮影は控えました。木造軸組でよくスパンをとばしているなあと感心しました。
敷地内には広大なぶどう畑があり、ここでワイン用のぶどうを栽培し地下室で醸造しています。いろいろな式典で用いられるとともに、来訪者が求めることもできます。
この建物は、カトリック神言修道会の多治見修道院というのが正式な名称で、神言会が設立した南山学園とも深い関係にあります。キリスト教的価値観の中で学び、文化を創っていくという考えが中京地域の中で連綿とつながっているのだなあと実感しました。
カトリックといえば、ルルドをご存知でしょうか。聖母マリアが洞窟の中で祈る姿を祀ったものです。本来は泉のそばに設けることがベストですが、静岡でも多治見でもカトリックに関係する施設では見ることができました。
また施設の裏側にはログハウスが数棟。修道士や一般の方が集い、研修にも使われているようでした。
日本では男子修道院は数少ないと聞きます。大切にされてきた信仰の場が保存され、活用されていくことを期待します。
2023年
12月
10日
日
幸兵衛窯
多治見市市之倉町の幸兵衛窯さんを訪れました。1804年開窯の由緒ある窯元さんです。
市之倉町は岐阜県と愛知県の県境に位置し、平安の昔から窯の火を絶やさず焼きものを作り続けてきた窯元の集落です。古くは山茶碗が山の斜面を利用した穴窯で焼かれ、美濃の窯では市之倉が初めて(1804年)磁器を焼くことを許されました。
幸兵衛窯さんは市之倉の代表的な窯元であり、現在は第7代幸兵衛氏の指導のもと、多数の熟練職人を擁して和食器の制作を行っていらっしゃいます。
案内されたこの建物は、福井から古い建物を移築したものだそうで、立派な柱と針が黒々と光沢を光らせていました。
歴代の幸兵衛氏達が研究し収集した、ペルシアや中国、朝鮮、日本の磁器達が陳列してあり、常に研鑽を積み、挑戦しながら200年以上の時をつないで来たことが分かります。
裏の山側に回るとしっとりとした庭園があり、こちらは情緒たっぷりです。代々の幸兵衛氏の趣味で時代ごと少しずつ違うとか。
歴代幸兵衛の方々は、江戸城へ染付食器を納める御用窯となったり、中国磁器を研究して岐阜県重要無形文化財保持者の認定を受けたり、宮内庁正倉院への復元制作での功績で人間国宝に認定されたり、海外の国立美術館や博物館で多くの個展を行い外務省に買い上げされたり表彰されたりと、まさに磁器の第一線を走り続けてきた人たちばかり。
7代、8代の方は京都市立美術大学出身とのことで、大学の美術科で陶芸を専攻する人の中には、やはり生業としている窯元の人たちがいるんだなあと、今更ながら伝統の力に感心してしまいました。そして美濃の地で感じたことは、皆さんだいたい京都に学びに行きますね。伝統と革新の中で審美眼を磨いて来ることが大切なんですね。
2023年
12月
02日
土
モザイクタイルミュージアム
多治見には小さなタイルを専門に扱う会社もあります。装飾用に開発されたモザイクタイルです。細かなタイルたちが作り出す模様で飾られた水回りや壁面を見たことがあると思います。
モザイクタイルミュージアムは、藤森照信氏が設計しました。外観はまちのなかの小山のような。タイルの原料となる粘土の鉱山をモチーフにしたとのことです。近づいてみると1階部分がすり鉢状にくぼんでおり、可愛らしい木の扉から内部にアプローチします。
外壁にはモザイクタイルが点々と埋め込まれ、高いところに木の管のようなものが出ています。何でしょう。中に入ってみると大階段。どうやら4階まで一気に伸びているようです。
最上階の4階は屋外展示室となっており、屋根にぽっかりと穴が空いていました。表に見えた管は雨水排水用の樋でした。
内部の展示では、磁器タイルの歴史について学ぶことができます。戦前、多治見市の前身である笠原町の山内逸三氏が釉薬を施した磁器質モザイクタイルの開発に成功し、地元に広がり国内最大のモザイクタイルの一大拠点となったこと。ヨーロッパや北米などにも輸出を広げ、自動車産業が台頭するまで、名古屋港での主要な輸出品であったとのことでした。
この多治見のエリアの磁器産業と常滑の陶器産業を共に学んだことは、大きなことでした。
設計事務所にとっては、ともすればただの建築材料の一つとして見られがちなタイルも、その誕生や生産過程の歴史の中で、情熱を持ち日々研鑽を積みながら向き合っている多くの人々がいることを改めて知りうる貴重な機会になりました。
2023年
11月
28日
火
多治見へ セラミックパークMINO
翌日は岐阜県多治見市周辺を視察しました。
まず向かった先はセラミックパークMINOです。磯崎新氏設計で2002年に建てられました。
自然の谷の地形に収まるように、ここにしかない植物を守るために橋をかけてアプローチし、最上階から降りていく構成となっています。紅葉も少し始まり、見晴らしの良い美しい環境でした。
内部空間の構成、空間スケール、どこを見ても絵になる。熟練の腕の冴を感じます。
この施設には美術館が併設されており、貴重な美術品を守るため、シルバーのボックスで中から吊っている構造になっていました。下の階の展示場に行く上部からボックスが降りており、面白い空間です。
山沿いには茶室が設けられており、水盤に映る樹木がとても美しく静寂な空気が流れていました。
こちらも磯崎氏の意気込みを感じる、丁寧に造られたエリアでした。大変勉強になりました。
2023年
11月
23日
木
常滑散策
常滑ってどんな地形?と聞かれれば、海から連なる丘沿いのまちと答えるかもしれません。そのくらいに街中に起伏のある高低差があります。
というか、この高低差こそが肝なのです。常滑では、陶器を焼くために、丘の傾斜に沿って登り窯というものが造られました。いくつもいくつも、その斜面に合わせて構えられ、そしてそれを中心に仕事場や住居が造られてきました。
なので道路はというと、狭くクネクネと間を縫うようにできており、現代の基準でいうと接道不十分で再建築不可なんて場所も珍しくありません。
昔の絵地図を写してみました。丘の上で作った陶器を浜まで下ろし、伊勢湾で船に乗せて出荷するという仕組みで地域が回っています。
古い木造建築も、保存や利活用に向き合わなければいけないものが多く、陶芸作家のアトリエになったり、ギャラリーになったり、カフェや人が集える空間にリノベーションされている場もありました。
この日は雨で足元も濡れて疲れてしまったので、コーヒーブレイク。ライカ好きの楽しいマスターの話を聞きながら、美味しいコーヒーをいただきました。
2023年
11月
14日
火
INAXライブミュージアム
全国大会初日のウェルカムパーティーは、INAXライブミュージアムにて。夕暮れが近づき、トンネル窯の煙突がそびえる広場で、少しずつ準備が始まっていました。
木造の工場の中には、焼きもの窯が収容されています。明治時代になり、常滑の人々は陶器でできた土管を一生懸命生産して全国に出荷していました。
地下の水道管や排水管として、1m程度の管を土から焼いて作り、つなぎにつないで社会の重要なインフラとしたのでした。今現在は樹脂製のものにとって変わられていますが、伊奈製陶や多くの地場工場が一家総出、いや地域総出で生産にあたっていたのでした。
私の方は、どろんこ館のほうで行われていた環境会議のお手伝いをしたり、装飾タイルや特注品の作り方、粘土、珪石、長石の配合や性質、窯場の説明(現在は電気やガスが主流)を聞かせていただいたりと、大変勉強になりました。
ところで皆さん、昔の帝国ホテルはご存知ですか?現在犬山の明治村に一部が移設されていますが、あの膨大なタイルは常滑でつくられたものなんですよ!フランク・ロイド・ライトの目もくらむような細かい造形。当時日本で主流だった赤レンガとは違う黄色いタイル。その色をどう出すか、焼成温度や酸素量の工夫も興味深いものがありました。
そういえば皆さん、陶器と磁器の違いって分かりますか?どちらも粘土、珪石(ガラスの材料)、長石(珪石を熔かす材料)でできていることは一緒です。が、配合が違います。
指先の爪で器を弾くと、磁器はチンチンと響く音がしますね。これは珪石が一番多いから。反対に音が響かない陶器は粘土が一番多く含まれています。
今も目指す作品によって、作り手たちが試行錯誤しながら新しい表現を追求しているのですね。
2023年
11月
12日
日
とこなめ陶の森 陶芸研究所
さて常滑に着きまして、ホテルに寄って全国大会の会場に顔を出し、街を丘の方に歩き出してみました。まずは港。重い焼き物製品を陸路で運ぶのはとても大変です。常滑では昔から海路で全国に出荷していたんですね。江戸や上方はもちろん、遠く平泉まで常滑焼が広まっていたそうです。
街中は、古い木造家屋をよく見かけます。もちろん建て替えされたものもありますが、窯の煙突がチラホラ散見されます。元々常滑では、家内工業としてあちこちに窯があり、住職一体の生活が地域で営まれていたようです。古い建物を改装し、ギャラリーにしている様子が多く見られました。
海から東へ進み丘を登ると、常滑市が運営している「とこなめ陶の森」に着きました。常滑焼きの振興と伝承、やきもの文化の創造と発信のため、資料館、陶芸研究所、研修工房が森に包まれて置かれています。
まず向かったのは、陶芸研究所。こちらはモダニズム建築のパイオニアである堀口捨己の設計です。茶室の研究者でもある氏の設計は、水平垂直の軸線や割付の合理性を追求し、余分な線がない、シンプルで明快な構成の中でドラスティックな演出をするものでした。
階段は宙に浮かせ、天井照明は幾何学パネル、展示室のトップライトは屋上の専用明り屋根を用いるなど、世にいう数寄屋というより、削ぎ落とした男性的な構成美の追求性を感じました。
屋上から西側を望むと、港の向こうに伊勢湾が見えます。市の夕日スポットでもあるそうです。
資料館では、常滑焼千年の歴史を知ることができます。なぜこの地でやきものが栄え、どのように暮らしを支えてきたのか。美術品というより、生活用品をつくる地域産業として。地域のくらしを学ぶことができました。
ちなみに常滑市の初代市長は伊奈長三郎氏。伊奈製陶(現INAX(LIXIL))の創業者でもあります。陶芸研究所は、伊奈さんが自社株を寄付した資金で1961年に建てられました。各建物の受付で若い人たちが働いているのが印象的でした。夢を持ち全国から研修に集まっているんでしょうね。
2023年
11月
09日
木
熱田神宮
今日から3日間、JIA日本建築家協会の全国大会に参加するため、愛知県に来ています。会場は、知多半島の中部国際空港の対岸に面した常滑です。
常滑といえば、古くは平安時代の頃から焼き物をつくり始め、現代ではINAX(LIXIL)が居を構える、建築用タイルや建材の一大産地として建築界では有名な場所です。
初めて訪れるので楽しみです。
その前に、熱田神宮に寄ってみました。都市の中に神宮の森が忽然と現れます。
熱田神宮がどこにあるかといいますと、熱田台地の一番南の先端に位置しています。ちなみに北端の崖に面して造られたのが名古屋城というのはご存知でしょうか。
濃尾平野というのは、多くの河川が集まり、海抜も非常に低いことから、昔から洪水に悩まされていた場所でもありました。
神社やお寺などは、昔は地域の最重要施設でもあるため災害を避けなければなりません。熱田神宮も同様にそのような立地となったわけです。
名古屋城に関しては、北側から(つまり上方から来る豊臣軍が)攻めづらくなるように配置されたとか。家康もよく考えました。
ご神域というのは、樹木と参道や建物に囲まれた空間の広さが、絶妙なゆとりを持って配置バランスを保っている、心を清々しくさせることを目指したものと解釈しています。だだっ広くても狭すぎても歩く速度がおかしくなるし、目線も落ち着かないし。数百年のときの中で心が納得する配置にたどり着いているのかもしれません。
熱田神宮といえば織田信長とピンとくる人は歴史通。桶狭間出陣に際し、願文を奏し大勝したので、信長はお礼として築地塀を奉納しました。土と石灰を油で練固め、瓦を厚く積み重ねてつくり、信長塀とよばれています。
お礼が塀?と思うかもしれませんが(私は思いました)、当時は神宮といえど決して安全なわけではなく、重要な防御設備として気品ある塀をつくりました。
三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び、日本三大土塀の一つとしても有名です。
2023年
9月
16日
土
紙コップタワーをつくろう@静岡聖母幼稚園2023
9月14日に静岡聖母幼稚園の年長さんを対象に、静岡こども建築塾のワークショップ「紙コップタワーをつくろう!」をやってきました。今回は静岡市民文化会館の地下一階リハーサル室をお借りしての開催。みんなでがんばりました!
外は猛暑の日々ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
今回の会場は地下なので空調で快適。と思いきや、建築レクチャーが始まると年長さん達のやる気と熱気がすごく、その勢いに押されて私は汗がとまりませんでした(笑)。
ありがたいことです。
建築やまちの成り立ち。平面的に見たり、立体的に見たり、頭の中でつながってくると、子どもたちの目が一気に開いてくるのが分かります。
試行錯誤をしながら、慎重に、大胆に、直し直されついに完成です!
今年の子たちは、身の回りを整理したり、よく考えながら積んでいたので、結果として手直しが少なくて集中できていたようでした。それもいい作品作りのコツだね。楽しかったね、ありがとう!
2023年
8月
20日
日
八ヶ岳散策2
2023年
8月
20日
日
八ヶ岳散策
週末にJIA建築家協会のメンバーで八ヶ岳を訪れました。写真は吉村順三設計の八ヶ岳高原音楽堂です。10年前にも訪れましたが、変わらずシンプルな力強さを持つ魅力的な建物でした。
「木立を抜けると三角の屋根が見える」。建築家が描いたイメージが、よく伝わります。
この建物は八ヶ岳東麓の別荘地、八ヶ岳高原海ノ口自然郷の音楽好きのオーナー達からの「大自然の中で生の演奏を」という声に応じ、1988年に誕生しました。
以来、客席数250席でありながら、国内外問わず多くの著名な音楽家達からこの環境で演奏したいと愛される音楽堂となりました。
この日の八ヶ岳は快晴で気温は28度ほど。爽やかな風が吹き抜ける中、チェンバロのコンサート(奏者:山下実季奈氏)を聴かせていただき、素晴らしい時間を過ごすことができました。
2023年
4月
15日
土
天神屋イオンタウン富士南店
4月14日にイオンタウン富士南に当事務所が設計した天神屋さんがオープンしました。当日は雨の中とはいえ多くの人出で賑わい、好調な滑り出し。店長さんやスタッフさんも生き生きしていました。改めまして関係各位の皆様に御礼申し上げます。
さて、このような空きテナントに出店する場合、既存店舗の状態が改修設計を大きく左右します。特に厨房や水回り。配管や設備の調査がとても大事になってきます。
施設全体の管理上の設えなど、様々な制約の中で出来ることを探しながら設計することは、コーディネートの感覚が強いかもしれません。そして何より、お客様が分かりやすく動きやすい動線計画が命。人々を直感的に導けるかどうかは売上に直結します(笑)。私は実際に現場で働くスタッフさんからのヒアリングを重視していて、その上で一歩新しく挑戦してみることが大事だと考えています。ここの店舗は注文をしてもらってから作るスタイルに意欲的なので、ぜひ皆さん出来たてを食べていって下さいね。
2022年
12月
30日
金
製材所にて
2022年
12月
29日
木
官地問題振り返り
気づけば年の瀬になってしまいました。今年ブログでちょこちょこと触れていた土地処理問題についてです。
実は9月に藤枝市との間では最終解決していたのですが、その後の土地利用をめぐり翻弄されてしまい、年末までブログを書く気が起きませんでした。しかしこの記事が皆さんの役に立つことがあるかもしれないと思い、書いてみることにしました。
さて官地とは何か。行政が所有する、地域の通り道や水路、堤など、公図の中で存在するもので、道路や河川ほど明確でない場合、昔の名残のものが実際の土地利用のなかに紛れた状態になっていることがあります。
今回の私の実家のケースでは、父の逝去に関わる相続前後で、既存住宅の真下中央を官地が南北40m以上に渡り縦断していることが発覚した事が、全ての始まりでした。
なぜこんな状態になっているのか。調べてみると、戦前の土地改良で敷地の中央を境に公図が別々に作られていたことが分かったり、戦後に官地の権利を村から買った譲渡証(地区の押印あり)が出てきたり(財務局は国庫に納めたとは認めず、藤枝市も思考停止…)、45年前の住宅改築時の確認申請では、当時の行政や関係者全員が気づかず許可を通してしまっていたりと、もうグチャグチャ。
さらに、東側の市道に接する敷地半分が農地のままであることが判明し、官地を挟んだ西側の宅地が接道していなかったりと、およそ現代の宅地として評価できない状態でした。
45年前の改築時に農転する時に、公図上の官地を実際の市道と勘違いしてしまい、一緒に農転しなかったことが原因でした。なぜか。本当の市道は、別々に作られたもう一つの公図の方に記載されていたから。法務局で自分の住所で公図取得申請したら誰も分からない。こちらは明治の頃の地図で作成されていたから(涙)。
そもそも実家には周辺にも農地がたくさんあるので、親はこの地番はどこかの一部だろうという感覚で、まさか敷地の下とは思ってなかったようで(固定資産税の課税地目ではしっかり宅地になってるのに。気づかんのか!)、唖然として腰が抜けそうになりました。
父の生前から足掛け2年に渡りいろいろ調べ、行政と協議しました。しかし市や国の役人達は基本的に先人達の失敗や負の遺産の解決を引き受けたくなく、諦めさせる方向に動いてきました。
それでも私は乗り越えて何とか解決しないといけないことだと思いました。八木家としては90年に渡り起きてきた問題です。今解決しなければ、私のように次の世代が迷惑するだけでしょう。次はどの手を打とうか、あれを立証することはできないか。少しずつ集めた資料を元に粘り強く交渉していると担当者の姿勢も変わってきました。
そこで私が行ったのは、まず建物下の農地については、戦前から宅地として利用している証拠をコツコツ集め、市の建設管理課と都市計画課に掛け合って既存宅地として認めてもらい、農業委員会で非農地証明を出してもらいました。その上で、法務局で農地から宅地へ地目変更登記を行いました。
これ、いきなり農転したいと農業委員会に行ってもダメで(最初は跳ね返されました)、本来なら建物を解体して更地にしてからじゃないと受け付けてもらえないため、結構苦労しました。しかしこれができないと、いくら官地がなくなったとしても道路と接する一帯の宅地にならず使いようがないためやるしかない。前半の山場でした。
次は敷地中央を南北40mに渡り縦断する官地について。一度先祖がお金を払っている(しかも譲渡証や覚書を読むと地区から結構たかられてる…)土地を改めて買い戻す肚を決め、土地家屋調査士を雇って官地の測量をしました。
公図2枚に(正確には3枚)別れた官地が、どの位置にあたるのか確定するため、周辺の登記図面を法務局で探し出し、明治、大正、昭和、平成、令和を行き来しながら時間的、周辺的整合性を検証し(もはや土地探偵)、やっとこうなのではないかと図面案を作成し、法務局の登記官の了承を取付け、それを実際の土地の上でポイントを打って決めていきました。官地の面積が買取金額に反映されるため、神経がすり減る作業でした。
そして導き出した官地を、市の立ち会いのもと境界確定し、町内会長や隣人の同意も得て市に用途廃止申請(元々機能は失われているんだけど建前として)を行い、法務局で土地表題登記と地図訂正申請、地目変更登記(水路、堤から宅地へ)を行い、やっと市所有の宅地という状況を作って、それに対し売り払い申請を行いました。ちなみに測量と表示登記と地図訂正は土地家屋調査士が、それ以外の申請関係は全て自分で行いました。
すべての工程が月単位でかかるので、我慢比べのようにジリジリと、スキを見せずに対応し、最終的に契約書ができて金額が確定したら、即座に支払いました(もう終わらせたくて必死)。
数百万覚悟していたので、結果的に数十万で済んだのは良かったけど、本当に本当に大変でした。
2022年
7月
19日
火
晴れの日の、となりに。天神屋
7月15日、静岡市葵区柚木の商業施設「マークイズ静岡」1階に、当事務所が設計を担当した天神屋がオープンしました。秋にご相談を受けてから完成まで、関係各位のご尽力に心より感謝申し上げます。しぞ~かおでん、おむすびやお弁当、地域ブランドとコラボした門出ソフトなどなど、心を込めて作った良いものをお客様に伝えたい、喜んでもらいたいという打ち合わせは楽しいものでした。素晴らしい人達が多いのが天神屋。皆様、ぜひぜひご来店くださいね。
2022年
5月
30日
月
京都4
京都府京都市中京区二条城町541。世界遺産・二条城のための町名ですが、これ以外の地番は発見できませんでした。旅の最後は息子の希望で二条城へ。妹のパンプスの足も疲れてきています。この頃には二人は仲良くなっており、受験生となる息子が、妹に中学の頃の成績はどうだったか(3年で伸びた)とか、どんな勉強法をしたか(教科書読んでたくらい)、先生には気に入られていたか(嫌われてた)とか、話し込んでいました。その姿を後ろから眺めながら、父は諸々お金を払う係に徹していました。
二条城は何度も来ていますが、国宝・二の丸御殿の内部造作について改めて言えば「天井の文化」と感じます。将軍の御殿としての豪華絢爛なつくりと、武家の作法や動線に基づく水平平面。元離宮二条城として皇室とも深いゆかりを持っています。
「大政奉還をやったのはここだよ」と息子に言えば、「ふ~ん」と下を見て歩いていました。何かを感じて、その内つながればいいけれど。
帰りの新幹線では、お土産の柿の葉寿司を美味しいと全部平らげていました。よかったな。
2022年
5月
15日
日
京都3
岡崎公園の参道では、市民がテントを張り、音楽を流し、BBQをし?さながらフェス状態でした。いいですよね、春ですし。我慢続きでしたし。気持ち分かります。私もこのブログの日付の頃には、藤枝市から非農地証明が下りて、農転の地目変更登記が済み、次は官地の測量だ!という状況です。境界杭を打ったり、打ち直させたり、測量図の修正指示など様々に労力を割いていますが、先が見えるということは何でもいいものです。
私達も一歩進んで、京都市京セラ美術館へ。
この帝冠様式の外観から察せられるように、1933年に京都市美術館として開館しました。公立美術館としては東京都美術館に次ぎ日本で二番目の開館です。
その後時を経て、2020年に建築家青木淳氏・西澤徹夫氏による大規模リノベーションを行い、地元企業の京セラが命名権を得て、京都市京セラ美術館としてオープンしました。
特徴は、外部のアプローチ周りがスロープ状になっており、地階レベルに下りてエントランスにアクセスする動線計画です。
この日は市民作品の展示も多く、様々な人が行き交っていました。中央の大空間も気持ちの良いものでしたが、展示作品として何を置くのが適切かと言う点では判断が必要かなと思いました。内部の動線も、シークエンスとしては複雑さがありました。全体的に見て感じたのは、美術館リノベーションの難しさ。様式や目的の違う設えを保存するということは、違和感を残すということでもあります。美術品に集中できるような、鑑賞環境全体の調和という点では、まだまだ模索が必要なのかもしれません。
外装に関して言うと、幅の違う金属板をタイルに埋め込み、刻々と変わる時間と共に光の変化を表現できるようにしてありました。
東山の緑につながる庭園の景観は、人々の目を和らげてくれそうでした。
岡崎疏水(琵琶湖の水を京都に送るための疎水)の橋の上で、妹と息子を記念撮影。眩しくて息子の目つきがやばいことになっていますが、伝えたいのは疎水と桜と東山の関係なのでご容赦下さい(笑)。妹には家からだいぶ歩かせてしまいました。ごめんね。
2022年
4月
30日
土
京都2
京大吉田キャンパスを出て、京大病院を右手に眺めながら南へ歩きます。改めて京都は高い建物がないですね。京都市の財政は火の車と言われていますが、大都市でありながら高層ビルがないため固定資産税を多く取れないという事情があるようです。学生も多いですしね。町並みを眺めたい観光地という特性からすると、地下鉄もどうなんでしょう。生活の足としてはいいかもしれませんが、来る時に京都駅からのバスの激混み具合を見ていると、元を取るのは難しいのかもしれません。
麗らかな陽気を浴びながら、岡崎公園に到着し平安神宮へ。この建物、京都だから何百年も昔に建てられたと思うかもしれませんが、実は創建は1895年。日清戦争が終わり、下関条約が結ばれた年です。ちなみに先程見た京都大学は、日清戦争の賠償金で作られました。第三高等学校を帝国大学に昇格する形で1897年に理工科から始まり、法科、医科と続きました。
さて話を戻して平安神宮。なんでわざわざ作ったかと言いますと、平安京遷都1100周年記念事業として創られました。え?1100周年!?
持ち出す理由が古すぎませんか…?と思う声もあるでしょう。いいんです。許します。何しろ当時の京都の衰退ぶりは目を覆うものがありましたから。幕末の戦乱で市街地は荒廃。明治維新の遷都で天皇陛下も東京へ移り、四民平等で武家階級は消滅。何百年も京都の消費を支えた大名達の武家屋敷もなくなっており、立ち直れずにいました。
新しい京都を模索し、千年の都を継承する心のシンボルとして、平安神宮の存在が多くの市民を勇気づけたようです。
2022年
4月
20日
水
京都1
息子を連れて京都へ。京都には私の妹が住んでおり、再会がてら散策しようと、まずは彼の希望で京都大学へ。キャンパスは地域に開放されているので、友達や家族で自由に散策している人が多くいます。将来受験を考えている中高生にとっても、現地に行けるのが一番ですからね。私も高校生たちに校門で撮影を頼まれました。ドキドキ、ワクワクの表情。がんばれよと伝えました。
さて有名な百周年時計台記念館ですが、免震工法で大改修済みです(下の写真)。
1階のギャラリーでは、京大の歴史がアーカイブで見れるのでおすすめです。
京都帝国大学を創立してから、少しずつ体制を整えながら領域を広げ、知を集積して日夜熱い研究をしていることが伝わってきます。
京都は戦争で爆撃を受けなかったので、キャンパス内の建物もいろんな年代の建築様式のものが残り、現役で使われていました。
戦後のRC打ち放しあり、戦前昭和のタイル張りあり、明治の赤レンガあり。雑多ですがこれも個性。伝統ある大学ならではの景観ですね。
一方で、敷地内に緑はそれほどありません。むしろ建物がギッシリで、さながら研究団地という様相。自分の通った大学が、敷地内のあちこちに森があるような(こっちが異常?)環境だったので、違うものだと思いました。一応、建築学棟もどんな所かなと探してみました(写真最後)。吉田寮もきれいになって、私は良かったと思います。少し入り口に看板がありましたが可愛いものでした。ただこの年代、モラトリアムしたい気持ちも分かる。私にもそんな時がありましたしね。
2022年
4月
10日
日
掛川城、二の丸御殿
桜の咲く頃、家族と掛川城へ行ってきました。このところ既存宅地の農転処理に向けて忙しく、やっと先日非農地証明申請を出すところまでこぎつけたので、気分転換です。
掛川という地は、訪れる度に他にはない土地だなと感じます。昔から東海道の交通の要衝でありながら、南に小笠山を抱え、温暖な気候に包まれているような感覚があります。経済や文化活動もあり、今までどれほどの人達がこの地で生活を営んできたのだろうと、土地の歴史に思いを馳せてしまいます。
最近私がずっと、既存宅地(登記上の地目は農地だけど、住宅を建てて使っていた)であったことを立証すべく、あの手この手で資料を集めていたからですね(笑)。お城ほどハッキリしたものを見ると文句なしって感じです。娘も口を開けて見ていました。
さて天守閣から東を見下ろすと、藩主が生活していた二の丸御殿が見えます。こうして見ると建物に瓦屋根がたっぷりとかかっており、「日本建築は屋根の建築」と昔から言われているのが分かりますね。
スカッと庭に開放された内部空間を目にすると、つくづく御殿というものは、柱と梁、桁で屋根を持ち上げ、間取りの可変性を有する襖で仕切り構成された、空間の開放を目指すインターナショナルスタイルに通じる建築だなと思う。
このタイプの日本の建築様式が、後年西欧で注目を集めた頃、西欧ではレンガ造から鉄骨ラーメン構造への大転換が起きており、壁の文化から脱却した連続空間を生み出すことで、採光や視界の確保はもとより、時間軸の変化による空間利用の変化を許容することができたとか。
そう考えれば二の丸御殿も、「何とかの間」と室名の記録は残っていても、当時は結構ざっくり違う用途に使ってたりして、なんて思いますね。じゃないと諸事まわらなかったでしょうね。
2022年
3月
31日
木
玉露の里
静岡では桜が満開になってきました。昨日は藤枝市朝比奈の玉露の里に立ち寄り、桜を鑑賞してきました。池に佇み鯉を眺めながら、しばしの静寂に癒やされました。朝比奈川の上流は、これから桃源郷のような雰囲気となっていきます。
2022年
3月
17日
木
土地調査
春の卒業シーズンとなってきました。静岡は3月になってからずっと暖かい日が続いています。
さて八木事務所では、年明けからとある敷地内の官地測量に向き合っています。
土地の由来や経緯調査は2年前からやっていたのですが、解決案に対して関係各位で頭を悩ませまくりで、ようやく土地家屋調査士に依頼して実測してもらうことにしました。
しかしこれがなかなか厄介な事案。まだまだ格闘しています。
これも勉強勉強!と言い聞かせ、前に進む日々です。
2021年
12月
31日
金
大掃除
2021年も今日で終わり。身の回りを整理していたら、リュックの底から高校サッカー選手権静岡県大会決勝のチケットが出てきました。母校の藤枝東が久しぶりに決勝に進出したので見に行きましたが、結果は0対2で静岡学園に完敗でした。テクニックというより、守備で負けた。正直、静学は一段突き抜けたなと感じました。これは全国優勝するかもしれない。あまりに悔しくて終わった瞬間エコパの駐車場に向かい猛然と帰った記憶しかありません(笑)。
しかしまあ、一学年の生徒定員が280人の藤枝東に対し、それと同数くらいのサッカー部員がいる静学では分母が違いすぎるのかも。勉強の条件付きで獲得できる生徒は限界があるし、それに対し静学は今年Jリーグ内定4人ともなると、もうJリーガー養成機関。私立と公立の差がどんどん開いていってしまうのかな~と、帰りの車中でもやもやしてしまいました。頑張れ藤枝東!
とはいえ今、全国大会で静学が快進撃しています。このまま頑張って優勝だ!
2021年
12月
14日
火
こども建築塾2021@焼津和田公民館
12/11(土)に、焼津和田公民館で静岡こども建築塾ワークショップ「紙コップタワーをつくろう!」を行いました。東益津と和田の合同企画としての依頼でしたが、全市から幅広く来てくれました。それにしてもこの公民館は立派でした。小学校に併設し、地域がゆとりを持って一体的に活動できるよう計画された望ましい在り方でした。
さて、レクチャーが始まる前は走り回っていた子ども達も、いざ始まれば真剣そのもの。しっかりインプットして、よーいスタート!
大きく大きく。最初の土台を小さくしないで、かといって自分の作品イメージもうっすら持ちながら、みんなどんなふうに手を動かしていくかな?
今回の子達は、全体的に失敗が少なかったように思います。あまり崩れなかったというか、多分、しっかり注意点を聞いていた素直な子どもたち。
積んでいる様子を見ていると、紙コップを置くときに、そっと朝露が下りるが如く乗せている!そう、それですよ君たち。素晴らしいね。
うちの一番下の3才の女の子も、紙コップタワー初めてですが、器用に積んでいて驚きました!「え?本当に自分でやったの?」ってお父さんが聞いちゃったね。嬉しかったね。
みんなインタビューもバッチリでした。それぞれの工夫や頑張ったことを堂々と発表できましたね。時々保護者の方の中には、同じようなことを子供が言っているなと思う方もいるかもしれませんが、いいんです。
まず、今日初めて出会った中で、人前で言えることが大事。そして共感しあえることが大事。自分のペースで言えることで、お互いを尊重できることが大事。発表は子どもたちにとって、ドキドキの一大事なのですから(笑)。
みんなでお互いの作品を大事にし、困ったらお手伝いもし、一生懸命お片付けも達成できて、充実感でいっぱいでした。ありがとうみんな!楽しかったよ!
2021年
12月
10日
金
諏訪にて3
さて諏訪大社へ。諏訪大社は4ヶ所の境内地を持つ神社で、現在は生命の根源・生活の源を守る神と崇められているとのこと。
全て廻ればパワースポット巡りとして運気十分でしょうが、今回は時間もないので上社本宮のみ。それでも来てよかったです。息子はいっぱいお願いしていたようですが、自分は思いつかずただ手を合わせるだけでした。階段を降りてきて思ったのですが、この地からはつくづく太陽に白雪が輝く八ヶ岳が綺麗に見えるんですよね(駐車場越しですが)。
諏訪湖のほとりの道を巡って諏訪湖博物館・赤彦記念館へ。伊東豊雄氏の設計です。諏訪湖に面して軒を抑えるアルミパネルを用いた軽快なデザインでした。内部のホールは日当たりが良く、湖の水面がキラキラしていました。ただ動線的にもっと回遊性があれば、2階の展示室のどん詰まり感がなくなったのかな。掲示物の見せ方もあとちょっと、頑張ってくれることを期待しています。
でも湖の周りって落ち着きますね。もちろん風もあって波もあるし寒いんですが、海と違い領域が分かるから地域に包まれている感覚がありますね。諏訪湖も富士五湖同様、観光やリゾートの雰囲気もあるのですが、生活が地域に深く根付いていることが大きな違いですね。住宅や学校はもちろん、エプソンの本社もありますし、高島城もありますし、路地を通れば人々の営みを感じます。
さて、せっかくだから帰りに温泉に入っていこうと、最後は片倉館へ。1928年に建てられた国指定重要文化財の温浴施設です。諏訪湖に面して、でーんと建っています。遡ること大正時代、シルクエンペラーと称された片倉財閥の当主が、ヨーロッパを視察した際に各国の農村に十分な厚生施設が整っていることに感銘を受け、上諏訪の住民の温泉、社交、娯楽、文化向上のために建てることを決めたそうです。素晴らしい地域の財産だと思います。私が入った千人風呂は、立って入れる位の深さで胸までありました。諏訪湖の湖上から夜の花火も上げてくれて、綺麗でした。
いい一日でした。
2021年
12月
03日
金
諏訪にて2
さて神長官守矢家史料館を見た後は、南側の緩い斜面を進んでいくと、ありました、ありました。藤森照信さん設計の茶室3連発。
まずはワイヤーで吊られた、空飛ぶ泥舟。
そして高さ6mの木の上につくられた、高過庵(たかすぎあん)。どちらもハシゴをかけて登り内部に入れば、諏訪盆地の街や自然を一望できる素晴らしい眺めを体験することができるでしょう。
その足元には、低過庵(ひくすぎあん)。地形の段差を利用し、屋根を持ち上げて入るようです。内部も本当に低そうです。
私はどれも中には入っていませんが、一生懸命作った銅板葺き、焼杉仕上げの外壁、やりたいことをやったことを確認しました。確認申請もいらないよう、ちゃんと10㎡未満に抑えてありました。
まあ高いだ低いだと、意外とプロポーションがああだこうだと、私が茶室をしげしげと眺めていようがいまいが、そんなこと娘たちには関係ないわけで、ああまたお父さんに変わった建築の所に連れてこられたと、だんだん慣れてきた様子。
そんなことよりいま大事なことは、諏訪は静岡と違って痛いように寒くて、土に霜が生えてチクチクしている!!と、凍った枯葉や林の中をザクザク走り回ることに夢中でした。
確かに空気が全然違うので、帰ってから一応調べてみたら、諏訪湖の標高は759m。私が住んでいる所は標高19mくらいだから、740mの標高差がありました。
なのでお昼は体を温めようと、ほうとうを食べに行くことにし、美味しくいただきました。ほうとうも良かったけど、山菜が新鮮で歯ごたえもよく大満足でした。
2021年
11月
28日
日
諏訪にて1
実は今年は本当に不幸と災難続きで、さすがにブログにもなかなか手が出ない状態でした。時々覗いて下さった方、ごめんなさい。
自分自身、今は仕方がないなと思いながらも、何とかいい方向に気分転換したいという思いがあり、ワクチンも打ったし寒くなる前に、神宿る地(と勝手に思い込み)諏訪に行ってきました。
中部横断道が先頃開通したおかげで、静岡市から諏訪までは車で2時間台で到着し、こんなに近くなったのかと本当に驚きました。
最初に訪れたのは神長官守矢史料館です。諏訪大社の神長官という役職を代々務めてきた守矢家の史料館ということで、神事などに関する数多くの古文書を収蔵しています。鎌倉幕府や武田晴信、真田昌幸の書状など、戦乱の中でも諏訪大社がこの地に連綿と在り続けてきたことが分かります。
さて、ちょっと変わったこの建築は、建築家の藤森照信さんのデビュー作です。藤森さんの実家はこの近所にあり、設計者を探しているときに声がかかったとか。ちなみに藤森は諏訪に多い姓のようですね。Google mapで諏訪を検索すると、たくさんの藤森さんが出てきます。
外壁はサワラの割板を貼ってあり、30年間張り替えることなく、いい味が出てきました。
屋根は上諏訪産の鉄平石葺き、軒先を貫く柱は諏訪地方のミネゾウの木です。本人曰く、軒が寂しいので四本柱を建てようとしたら偶然鉛筆が走って軒を突き抜けたとか。
内装は藁を混ぜた色付きモルタルで塗り上げてあるので、構造は木造かと思いきや、そこはしっかり鉄筋コンクリート造でした。
2階の収蔵庫は残念ながら非公開でしたが、金物やガラスは全て手作りで、質感や空間プロポーションの見せ方に拘りがありました。奥の壁を傾斜させてあったり、階段もわざと踊り場までにして、上半分はわざわざ機械で下ろしてつなげる設計ですからね(笑)。
外に出てから、東に見える雪をかぶった八ヶ岳の山々を眺めていると、なんとなくこの一体に分布した、縄文遺跡につながる土着性のようなものを感じました。
帰り際、何気なくパンフレットを開いてみたら、プロジェクトデータが載っていて、目が釘付けになりました。1991年竣工、鉄筋コンクリート造2階建て一部木造、延床184㎡の建築をつくるために、いくら設計監理料、外構その他を含んだっていったって、総費用が1億3千6百万円って…。
本当ですか!いや、本当なんでしょうけども!
すごいね諏訪。
2021年
10月
18日
月
遠州・横須賀
仕事で遠州横須賀を通ったので、清水邸庭園に立ち寄りました。
横須賀は小笠山の南に位置し、山と海に挟まれた東西に広がる地域。その昔、徳川家康が武田勝頼の高天神城攻略のために横須賀城を築いた、浜側の要衝です。東名高速やJRの線路とは離れていますが、現在でも歴史的町並みの保存活用が盛んなエリアでもあります。
私も今回初めて来たのですが、ちょうど高校生達の下校時間とも重なり、地域の日常生活の雰囲気も知ることができました。
この庭園を築いた清水家は、江戸時代に廻船問屋を営み、横須賀藩の御用達を務めて栄えた旧家でした。庭園には中央に湧水を取り入れた池が配置され、その廻りを散策できる回遊式の構成になっています。季節ごとの樹木を愛でながら、のんびりと和むことができそうです。
ん?廻船問屋…?と今の町並みを見たら不思議な気がしますが、実は横須賀は元々、城の西側から南側にかけて入江池や内海(潟湖)で遠州灘まで囲まれた土地でした。その汽水域を運河として利用して河口付近に湊を有し、遠州南部の陸路の交差点という特性を活かすことで、海陸の物資集散地として賑わいました。この公園の東側にも、船着き場の跡がありました。
しかし残念ながら、現在は水運の姿を見ることはできません。1704年の宝永の大地震によって地殻変動が起き、汽水域が干上がり湊の機能が低下するなど、大打撃を受けてしまったからです。この時期の藩の石高は江戸前期と比べ急激に減少しており、家臣の数も減らさずを得ないなど大変な苦労があったようです。
その後なんとか建物は復興を成し遂げ、現在まで春には三熊野神社大祭が盛大に催されるなど、地域の伝統がしっかり受け継がれています。今度は祭りの季節に訪れてみたいと思います。
2021年
8月
25日
水
静岡の水災
こんにちは。JIA機関誌に静岡の水害の記事を寄稿しました。ご一読ください。
今年7月、静岡では集中豪雨により県東部各地で水災が発生しました。熱海の土石流をはじめ、沼津や富士では広い範囲で浸水被害がありました。
富士山南麓の愛鷹山の裾野には、水を想起させる地名の湿地帯が広がっています。この地域の標高は海側の方が高いため排水が悪く、昔から幾度も水災が起きてきました。私も今回被災者への対応にあたりましたが、中には床上50cm以上の浸水が家を建ててから4回目という住宅もあり、もはや十分な修理をあきらめている様子に心を痛めました。
一方で私が住んでいる静岡市もまた、長年水災と闘ってきた街でした。地元以外の方が静岡市の雨水排水のイメージを聞かれたら、「安倍川が市街地を縦断して駿河湾に注ぐように、雨水も北から南に流れる」という答えが多いかもしれません。答えは4割正解。6割は北東の清水港の方に向かって流れる、巴川という二級河川によって排水されていきます。
静岡市の地形は、西側の旧静岡地区と東側の旧清水地区が、駿河湾に面した日本平の丘陵を中央で抱きかかえるように結ばれています。中心市街地の中で一番標高が高い場所が駿府城の辺り(約25m)であり、そこから北東に広がる地域は、ダラダラと緩く下りながら日本平の北麓を廻って清水港に至る地形になっています。
いくつかの支流が集まる巴川は、全長18kmに対して高低差が6mしかない超緩勾配であり、曲がりも多く、流域面積に対して十分な川幅もなかったため、豪雨のたびに洪水をおこしてきました。そこで、今から45年前から巴川総合治水対策事業が行われ、川の拡幅や、上流域における広大な麻機遊水地の整備、分流堰から日本平西麓を通って駿河湾に至る大谷川放水路の開通により、浸水被害が小さくなってまいりました。
近年の豪雨を目の当たりにすると、まだまだ完璧とは言えませんが、静岡市にいらした折には、治水土木の仕事も見てみてはいかがでしょうか。
2021年
6月
26日
土
こども建築塾2021@静岡聖母
6/2、6/7の二日間、葵区の静岡聖母幼稚園年長園児を対象に「紙コップタワーをつくろう!」のワークショップを行いました。みんな今日を楽しみに待っていてくれたようで、準備をしていたら、待ちきれなくてこっそり覗きに来たり(笑)、可愛いんです!
さくら組さん、すみれ組さん、笑って学んで夢中になって、本当に楽しかったね。
この園でやるのは3年ぶり。建築レクチャーも少しずつバージョンアップをしています。
私達のワークショップでは、子どもたちの身の回りの「常識」をいい意味で壊しながら、発想の限界点を伸ばし、気づきと気づきをつなげる「気づきのデザイン」に力を入れています。
いろいろな感覚をほぐしながら、感じたことを何でもやってみていいんだと思えること、自分のアイデアを時を置かずに自分のリズムで体を使って表現していくこと。
実際に子どもたちが作品を創り始めたら、私から作品の方向性に注文をつけることはまずありません。補修の助言や友達の作品との安全距離ぐらいかな。というかみんな夢中になっちゃって聞いて来ません(笑)。
それこそが自主的な取り組みの証。一番いいことなんでしょうね。
みんな、頭と体を使って汗だくに頑張ったね!
2021年
4月
24日
土
MAKINOHARADAICHI
本日は息子のバスケの試合の送迎で相良に行ったので、空き時間を牧之原台地で過ごしました。最近はコロナの関係で保護者の試合観戦も自粛なので、トーナメントの勝敗如何で終わりの時間が読めず大変です。勝ち続けることを考え、一旦家に帰ってしまうと、2時間/往復✕2往復=4時間。しかしあのチームは弱いので多分初戦で負けるはず(私は悪い親でしょうか)・・・。よし!天気もいいので少し歩こうと、牧之原台地の東北端、島田市金谷の諏訪原城跡にやってきました。
ここは武田勝頼が遠江侵攻の拠点にするため、家臣の馬場美濃守に築かせた山城です。立地は、大井川を西に渡可し、牧之原台地に上がる坂を登りきったところと言えばよいでしょうか。城の南の城域内を東海道が通過する、まさに東西交通の要衝の地に位置していました。掛川城(掛川市)、高天神城(掛川市(旧大東町))の攻略作戦を念頭にしつつ街道を押さえる、絶妙な敷地選定です。常々思うのですが、強い大名って、本当にここぞって場所に城を築いています。
さて城の特徴ですが、武田流築城術の特徴である、虎口の前に設けられた三日月堀と曲輪がセットになった、大きな丸馬出が残っていることで城郭ファンにはちょっと有名です。ちなみにこの考え方は、後に武田家家臣だった真田家が大阪夏の陣の時に大阪城の南に築いた真田丸にもつながっているようです。想像より広く、不思議な距離感。何と言っても騎馬軍団ですからね。実際に柵や塀が築かれていたらどうだったでしょうか。堀の向こうに矢を射掛けてる時に、丸馬出のサイドから一気に騎馬が突進してきたら、とても逃げられないでしょうね。う~ん、ひどい。
ところでたまに言われるのですが、私は別に城マニアではありません(笑)。今日も若い城ガール達が朝9時に歩いていて驚きましたが、私の場合はといえば、空間体験が主な目的です。
現代建築で求められる用途とは全くかけ離れた、使いにくさ(攻めにくさ)を成立させるための距離感や動線の作り、圧倒的な圧迫感など、利便性が追求される現代では、こんなところでも来ないと体験できませんからね。
自分が便利さに偏りすぎないよう、反面教師?としての経験です、経験。
本曲輪から東を望むと、金谷の市街地の向こうに大井川が流れ、橋がかかっています。その先は志太平野が広がり、あの時代なら藤枝に田中城が築かれていました。
後にこの城を攻め落とした徳川家康は、ここから東の駿河に攻め込み、高天神城への兵站基地となっていた田中城や小山城(吉田町)を牽制し、ついに高天神城を落城させ取り戻し、武田家の滅亡につながっていきました。
「静岡ってのんびりしていいね」なんて、とても言えない激しい時代でした。
さてその後は、ふじのくに茶の都ミュージアムに寄って一服。明治末期から清水港がお茶の輸出を本格的に取り扱い、横浜港や神戸港を抜いて日本一になった歴史、外国商館が静岡市安西に立ち並んでいたことなど、以前静岡市内の洋館建築の視察で得た知識を補強できて良かったです。勉強になりました。牧之原のお茶畑って、この時期本当に風が気持ちいいので、みなさんも良かったら通ってみてくださいね。
2021年
4月
09日
金
新緑の季節
新年度が始まりましたね。静岡では桜の季節も過ぎ、新緑が眩しくなってきました。
先日、建築家への夢を抱いている中学生のU君から、高校入試に合格し進学先が決まりましたと報告をいただきました。みっちり勉強しそうなカリキュラムのようですが、きっと持ち前の探究心で頑張って道を拓いていくことと思います。(本当に良かったね。頑張ろうね。)
私の方はというと、建築家協会の年度末決算をまとめたりと色々ありましたが一段落ついたところです。今週、長泉町の駿河平の方に行く機会があったので、クレマチスの丘のベルナール・ビュフェ美術館に寄ってみたのですが、なんと休館日にあたってしまい残念。しかし緑がとてもキレイで静かに歩いているだけでも癒やされました。そうそう、お隣の井上靖文学館が長泉町の運営になるとか。実は私、ここの生原稿を時々見るのが好きでした。東京から静岡に帰ってきた頃に初めて訪れ、丸みを帯びた字が独特の雰囲気を醸し出す原稿を、食い入るように眺めていたことを覚えています。あれから18年も経ったんだなあと、時の流れに驚き入るこの頃です。
2021年
3月
13日
土
2021.3.11
東日本大震災から10年が経ちましたね。私はその年独立したので、八木紀彰建築設計事務所も10年の節目となります。安全性への誓いを胸に仕事を始めたことを思い出します。
昨日、テレビでFUKUSHIMA50という映画を息子と見ました。最近私が、「津波の映像を見ると今でも涙が出ちゃうよ」と話していたのですが、映画を見て彼も何か感じたようで、「あたり前のことってないんだね」と言っていました。
あの頃、東北から静岡に避難してきた方々とも知り合いになったし、復興に向け努力した人々も周りにいました。今年2月の宮城福島地震の対応にあたっている方々もいます。
私達にできることは、固定概念を極力なくしながら、地域と風土を温かい目で長く見続けることだと思います。決して元通りに復旧しなくても、そこには時代の要請や産業構造の変化もファクターとして入りながら、新しい形で少しずつ社会が始まっていく。復興は早いだけがいいことではありません。時をかける強さもあることを信じたいと思います。
子どもたちに自然災害のメカニズムについて科学的な教育をしっかりと施しながら、次の世代、その次の世代につなげていきましょう。私も自分のやるべきことをやっていきたいと思います。
2021年
2月
14日
日
山中城
本日は仕事の帰りに山中城に寄り道してきました。箱根と三島をつなぐ旧街道にある、北条氏の城郭跡です。
ここは石垣を使わない、畝堀という土の堀の構造が特徴で、本丸や西の丸を囲む堀を渡る敵を、狙い撃ちしやすくなっています。
いつか体験したいと行ってみましたら、ものすごい立体空間です(笑)北条の築城術恐るべし。立地もよく考えられており、富士山裾野一帯、田方平野、駿河湾の水軍基地まで見渡せ、小田原とのつなぎにも最適そうでした。
2021年
1月
19日
火
S様邸 建具調整
本日はS様邸のアフターフォローで、建具調整の立会いに行ってきました。
年末は内覧会、お引越しとバタバタと忙しかったのですが、年が明け建物を少し使っていただいて、調整が必要な部分が出てきたところで対応させていただきました。
S様には恐縮ですが、しばしお付き合いいただいております。
今回、木製建具工事をやっていただいたのは、古庄の青島建具さんなのですが、実はここの会長さんが作った名刺入れ(久能山東照宮参道脇のヒノキを使って)を、私が使わせていただいていました。
以前ブログで書いたことありますが、職人さんに聞いてみたら会長さんの作品とのこと。縁がありましたね。
本日はありがとうございました。
2021年
1月
04日
月
謹賀新年
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
コロナ禍の中、外出を控える年末年始となりました。こんな時だからこそと、たまった身の回り用を整理する日々です。今できる事だけに向き合うのもいいものです。
その一方で不思議で仕方ないのは、正月のTV画面に映った、混雑した初詣での境内でコロナの収束を願う人々の姿。
いやいや・・・。ちょっと考えることって、そんなに難しいものですかね~。
2020年
12月
31日
木
S様邸完成
2020年の年末にS様邸が完成し、無事引き渡しをさせていただきました。関係各位のご尽力に感謝すると共に、この機会を与えて下さったS様に、改めてお礼申し上げます。
内覧会には途切れることなくご来場いただき、出会いもある良い二日間となりました。またこの時期のイベントとして、感染対策へのご理解・ご協力をいただき、円滑に行うことができました。重ねてお礼申し上げます。
皆様にゆっくりと見ていただけたようで、「敷地条件や狭さを感じない」、「明るく温かい」、「広さと開放感を感じる」、「水平方向の抜け感がある」、といった声をいただきました。
与条件の中で、どのような建築の姿を描くかは、設計者ごと千差万別かと思いますが、私は今回、外観は金属サイディングを用いてシャープに納め、内部は水平、垂直方向の抜き所をつくりながら、自然素材や木に包まれた明るく温かい空間としています。ご家族を包んでくれる住宅として、こうあって欲しいという願いが、実現できていれば嬉しいです。
また完成写真を整理したら、アップしていきたいと思います。
それでは皆様、本年はいろいろありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いします。
良いお年を。
2020年
12月
20日
日
S様邸(長谷町の家)内覧会のご案内
S様邸が竣工を迎えようとしています。現場は最終調整段階です。
来週、下記の通り内覧会を開催させていただきます。
よろしければ是非お越しください。お待ちしています。
2020年
12月
13日
日
藤枝岡部 大旅籠柏屋
藤枝岡部の大旅籠柏屋の内庭に立ち寄りました。初めて行きましたが(地元なのに…)表通りの表情とは違う、落ち着いた空間でした。
山を背にしてなまこ壁の建物が2つあり、一つはギャラリー、もう一つは最近レストランがリニューアルオープンし、女性客で満席でした。なので、私達はしばし外を散策…。
ちょっとした庭園もあり、池もあり、水琴窟もあり。気持ちのいいスケールにほっこり。歴史を受け継ぎ、現代に合わせながら大切にしていく人々がいて、そしての価値を認める人々がいて、私は嬉しかったです。
2020年
12月
12日
土
S様邸 気密
今回は気密のお話をします。
S様邸では、断熱材に室内の湿気が入り込まないように、内装ボードの裏に気密シートをグルっと張り込んでいます。
ダウンライトやコンセントなどの設備の裏にも気密シートを回して気密切れが起きないようにしています。壁内に湿気が入り込んでしまうと、カビや結露、木材の腐食に繋がる場合があるので、何度もしつこくチェックしながら施工してもらいました。なれていなかった職人達も、だんだん当然の事と変わっていってくれました。
2020年
11月
08日
日
S様邸 外壁
11月に入り、外壁ファサードが立ち上がって参りました。板金屋さんと朝現場で張り始めた瞬間に、「あ!いいじゃん!!」これはカッコ良くなると八木は確信いたしました。
現場のテンションも上り、来てくれたお施主様も喜んでくれたので安心しました。鉄骨建方時からの変遷を写真にしてみましたが、やはり嬉しいですね。ちなみに白い透湿防水シートの下には、外断熱のスタイロボードが張られています。
この外壁材は、表面はガルバリウム鋼板で耐候性が高く、芯材は15ミリの成形断熱材でできています。金属サイディングの欠点である遮熱性に対応した建材です。そのため一般の窯業系サイディングと比べ重さが1/5程度で軽量なため、地震力による揺れを抑制することができるため、構造部材サイズの合理化につながりました。また、継ぎ手でシーリングを使わない納まりなので、防水性が高いのも特徴です。
そして何より私が重要と思い拘ったのが、その裏の通気層です。
縦胴縁を途中でカットして隙間を設け、足元から入った空気の上昇気流が、横方向にも逃げられるよう通気ルートを確保しています。
外壁に取り付く設備機器や窓サッシが途中にあっても、建物一体で気流が廻り、最後には必ず屋根の笠木まで辿り着き、外部に空気を排出できるような計画としています。
壁面の作り方としては、建物外側から順に、外皮遮熱層、通気層、防水層、外断熱層、内断熱層、内部仕上げの構成となっています。
また、外壁下端の止縁には、底に水抜き穴を現場加工開けてもらい、雨水が入り込んでも溜まることなくスムーズに排水できるようにしてあります。
私は常々思うのですが、見せる部分を美しく維持していくためには、見えない部分に倍以上の努力を注ぎ込むべきだと思っています。
「ディテールは、より緻密なディテールで支えられている」
下地工事がいかに重要か、現場で監督さんや職人さんに伝え続ける毎日を送っています。
2020年
11月
02日
月
S様邸 内装下地、断熱施工
このところ内装の天井、床、壁下地が一気に進んでいきました。毎朝現場で指示を出しているので気づいたらあっという間に時間が過ぎていました。
今回は下地を木で組んでいるので、細部の納めが加工しやすく、大工さん達が工夫できるのが最大の利点。よく相談しながらやってます。床根太も105✕45@303で組んでますので、天井野縁も設備類もガッシリ自由に吊れるようにしています。ドンと来い!って感じです。
外断熱のスタイロボードで覆ってきているのですが、南側の開口が広いから室内が明るいですね。
下地胴縁と共に、断熱材も施工します。一般的に鉄骨造ではヒートブリッジが悩みのタネかと思います。
そこで今回は、鉄骨の外側(壁・屋根共)に外部からの遮熱を目的とした外断熱スタイロボードを張ります。そして内側は室内の保温を目的としたグラスウール(壁内は100ミリ厚、天井は155ミリ厚高性能タイプ)でしっかり断熱し、快適な室内環境をつくります。
この辺りは丁寧に丁寧に、設備配線や造作納まりと並行して進めています。
2020年
10月
29日
木
S様邸 防水工事
本日は天気が良いので屋根のFRP防水を行いました。平場の突付なので、施工を邪魔しないよう足場からそっと見守りながら。遠くには富士山も見えました。
天井根太の上に構造用合板を張り、その上に断熱材スタイロボードを敷き、防水フィルムを敷いてケイカル板張り、迄が下地です。
そしてそこからFRP防水。法22条地域として火の粉に強いよう、ガラスマットは二重張り仕様です。トップコート色はグレーでまとめ、立ち上がり天端まで切れ目なくグルっと施工して完了です。
2020年
10月
18日
日
S様邸 根太組み
現場では床の根太組みが進んでいます。同時に鉄骨胴縁や土間下砕石敷きなど、色んな職人さんが忙しく働いています。
先日、階段の手摺が付きました。休憩時間に一枚パチリ。職人さんの帽子が引っ掛けてある風景が微笑ましくも現場らしいなと思いました。秋の良い日差しが気持ちいいですね。
さあ皆さん、頑張っていきましょう。お願いします!
2020年
10月
14日
水
東山旧岸邸
仕事で御殿場に行った折に、東山の旧岸邸を見学してきました。
東名高速より東側の東山地区は、明治の頃から多くの政財界要人や外国人の別荘が建てられた地域。緑豊かで落ち着いた環境は、人々の心身をリフレッシュできる社交の場になりました。
この建物は1969年に竣工し、施主は元首相の岸信介氏(先日辞任した安倍総理の祖父)、設計は近代数寄屋建築の大家の吉田五十八氏が手掛けました。
北側から木立を抜けてアプローチし、玄関ホールを抜け来客用の居間に入ると、南側には小川の流れる開放的な庭園が広がります。上の写真は庭園からの振り返り。
庭越しに森を眺めているだけで、心が癒やされていくのが分かります。海の別荘とは違う、森の別荘の良さですね。
内部の造作や使用している材は、どれも丁寧に良い材が使われています。納まりのディテールも艶があります。
設計した吉田五十八氏によると、政治家の別荘はいかに私的であれ、いつ公的な要素が入ってくるか分からないので、サービス部門を中心に配置し、来客スペースと生活スペースをスムーズに分ける空間構成に配慮したとのこと。数寄屋の大家といえどそこは一流の建築家、押さえるところは押えています。事実この建物を建てたのは岸さんが総理を辞任した後ですが、日本の各国際団体の要職を努めていた関係でアラブの国王まで訪れていますしね。
住まいとしての機能が美しい自然と一体になった、素晴らしい建物でした。
もしひとつ言えるなら、床材の張替えを検討してもいいかも。なんてお節介かな・・・。
2020年
10月
06日
火
S様邸 コンクリート4週強度
2020年
9月
30日
水